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2014年06月22日

無に向かってる私

無に向かってる私


先日頂いたご依頼メールを読んで
色々考えるところありました。
今いちばんしんどいんところに
いはるんやろな〜と思いました。
私のセッションやカウンセリングは
”私はなにもして差し上げられない。”
そのスタンスから私は始めます。
困っているひと、苦しんでいるひとを前にして
私はなにをしてさしあげられるのかと
悩んだことがありました。
そのとき”私はなにもして差し上げられない。”と
いうことに気づきました。
悩みをかかえているひとに
通り一遍のこと言ったり
同情したりするのはかんたんです。
でも、それぞれのひとは
それぞれの悩みの中で
もがき苦しんでおられます。
そこから抜け出そうとする過程が端から見て
遅々として進んでいなさそうに見えたり
危なっかしそうにみえても
それはそれで、そのひとにとっては
必要な道のりだったりします。
それを無理に
”こっちの道はもっと楽だよ!”と
手を引っ張って連れていくことは
私にはできません。
ご自分の意思で
そこに向かわれるしかないのです。
これは、私自身がもがき苦しみながら
その道のりを歩いた経験からも
そう思ったのです。
そんなことから
”私はなにもして差し上げられない。”のです。
でも、”私はお話をお聞きすることはできます。”と
いうことにも気がつきました。
だから、今の私はお話をお聞きする役をしています。

苦しみながら生きるということは
ある意味、survive(生き延びる)ではないのかと
私は思うときがあります。
私自身、大学病院通わないといけない
病気が治ったと思ったら
なんの前触れもなく
パニック障害になって長く苦しみました。
今から思うと鬱にもなっていたように思います。
それが治ったのは
そんなこと気にしちゃいられないほどの
大嵐が家庭に吹いたからでした。
それなんとかするのに必死で
パニック障害とかいってられなくなったのです。
そんなこと振り返ってみたら
私の人生40半ばまでsurvive人生でした。
”生き延びてきた”その言葉が
しっくりとくる40数年でした。

でも、50過ぎてから
surviveって思わなくなってきました。
自分に今までに起ったいろんなことが
色あせて見えてきたのです。
周囲の空気にとけて
薄く感じられるようになってきています。
記憶としてはあるのだけれど
リアルに鮮明にあるのではなく
日焼けして色あせてきた感じ
だから、そこに当時感じたような
感情もほとんど残っていない。
すごく嫌だった思い出に対しても
それをジャッジする自分すら存在していない。
ただ傍観者として眺めている私しか存在しない。

今の私は今まで自分が着ていたものを
どんどん脱ぎさって
自分が無に向かって
進んでいってるような気がします。
あ〜、この世を去るときは
すべてのものを脱いで
ほんとうの無になってるんだろうなと思います。
そうか、どうせ無になるんなら
なにしても無駄とか思わずに
これからまだまだいろんなことしてから
無になろうかな?とも思う今の私ですヒミツ

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Posted by Yummy at 23:05 │ひとりごと
この記事へのコメント
自分の人生は自分の手に委ねられているのですよね。他力本願では何も変わらない。今日も自分の人生を『生きる』。これのみ。
Posted by pineslake at 2014年06月29日 20:27
pineslake様

この間、FBを通してこんなことを教えてもらいました。”アブダカダブラ”という呪文は、実は”自分の言葉は人生を創造する。”という意味があるそうです。ほんと、その通りと思いました。私の口から放たれる言葉は、まさに私の人生を作っています。
Posted by YummyYummy at 2014年06月30日 10:29